日本に来て言葉や文化の壁に悩んでいる方へ伝えたいこと-フィリピン人スタッフの経験談-【前編】

2021年4月16日

日本で暮らし始めた外国人の方で、言葉が分からなくて学校や職場になじめない、母国では当たり前と思っていたことが違い戸惑っているなど、言葉や文化の違いに悩み、不安を感じている方もいらっしゃるのではないでしょうか。

そこで今回は、子どもの頃に来日してから現在まで、日本で生活している当事務所のフィリピン人スタッフ「サンタアナ アンジェリー(ニックネーム:エンジェル)」に、日本に来てから、苦労したこと、変わったきっかけ、日本で暮らすうえで大切に思うことなど、経験談を日本人スタッフの桂からインタビューし、その内容を前編・後編に分けてお伝えします!

同じように日本に来て言葉や文化の違いで悩んだり、行き詰っている外国人の方の気持ちが少しでも楽になったり、ちょっとした勇気になったら嬉しいです。

はじめての日本。来日理由と当時の気持ち。

インタビュアー桂

エンジェルが日本で暮らし始めたのは9歳の時だよね。どういう理由で日本に来たの?

インタビュイー

もともと私の母は日本に出稼ぎに来ていました。働いたお金をフィリピンにいる祖父母に送金し、生活を助けていました。母はフィリピンで私を産んだ後も日本で働き、私はフィリピンの祖父母に育ててもらいました。母はいつか私を呼び寄せし、日本で一緒に暮らしたいと思い頑張って働きました。

私が9歳の時、母は日本人の男性と結婚することになり、私はフィリピンを離れ、日本で両親と暮らし始めました。

インタビュアー桂

生まれてからずっと過ごしたフィリピンを離れて日本に行くことになり、当時はどんな気持ちだった?エンジェルはお母さんと暮らしたいと思っていたの?

インタビュイー

日本に行くのはとても嫌でした。出発の日、空港であばれて熱が出たくらいでした!
フィリピンでの生活は楽しく、祖母や友達と離れるのがとても不安でした。正直、両親がいないことに寂しさを感じてはいませんでした。今まで祖母に育てられたので、母との関係が何もない状態で、どう母に接したらいいか分かりませんでした。母と父と日本で暮らすと説明されてもピンとこない。抵抗感はあっても母の言われた通りにするしかありませんでした。

にぎやかで明るいフィリピンから日本にきて、日本語が分からない私にとっては、何も聞こえない静かな空間に感じました。はじめての母、父との生活。最初は家にいても落ち着かず、ホームシックになりました。

はじめての日本で感じた言葉と文化の壁

インタビュアー桂

一緒に生活する人も場所も、自分を取り巻く環境が一気に変わったのは、理解が追いつかなかっただろうなと思う。日本にきて最初に感じた壁やカルチャーショックだった出来事は?

インタビュイー

日本の小学校に行き始めて、やはり「言葉の壁」が大きかったです。
日本語が全く分からなかったので、何を言われているのかは分からない。だけど、周りの様子から自分はいじめられていると感じました。

「エンジェル」という名前が日本人にとっては珍しく「デビル!」とからかわれていました。フィリピンでは、ニックネームで呼び合うのが普通で、名前でいじめられたのはショックでした。名前の何が問題なのか、悪く言われるのが不思議で悲しかったです。

あとは、「生ものを食べること」にびっくりしました。フィリピンでは普通、生で魚を食べません。日本で初めてお寿司が出された時、イカを食べたのですが、食感が気持ち悪くて、そのトラウマで、今もお寿司やお刺身は苦手で食べることができません…。

インタビュアー桂

お寿司、苦手なのね…!最初に食べるのはイカじゃない方がよかったかも…。
小学校で言葉が分からなくて、でも、いじめられていると感じたのはつらかったね。その時、つらいことを相談できる人はいた?

インタビュイー

フィリピンでは勉強も人と接することも好きでしたが、自分を否定された気持ちになり、何もかもやる気がなくなりました。でも、誰かに相談はできませんでした。

母に対しては「無理やり日本に連れてこられた」という思いと、遠慮の気持ちがありました。面倒をみてくれる小学校の友達がいましたが、頼まれてやっている、気を遣っているのが分かり、あまり心を開けませんでした。

間違いを認めてくれる場所。日本語学級との出会い

日本語学級
インタビュアー桂

相談できずに一人で抱えていたのはつらかったと思う。
つらい状態から徐々に日本での生活に慣れていったのは、何かきっかけがあったの?

インタビュイー

最初の1、2カ月くらいは、母が通訳で学校に一緒に来てくれていましたが、週に2回、通っていた小学校とは別の、日本語学級に行き始めたことが大きかったと思います。4年生から6年生の間、通っていました。そこで自分と同じような背景を持つ外国籍の生徒と一緒に日本語を勉強しました。フィリピン人の友達もできて、楽しかった記憶があります。

インタビュアー桂

そこでは具体的に、どうやって日本語を学んだの?
全く分からない状態から勉強するのは教える方も学ぶ方も大変だよね。

インタビュイー

日本語学級で最初は、絵がかいてあるカルタなど使って、ひらがなを覚えていきました。最初、日本語学級にも母は一緒に来て、通訳のサポートをしてくれました。日記を書いて、先生が文法などの間違いを赤ペンで直してくれました。少しずつ日本語を覚えていくと、作文を書いてみんなの前で発表する授業もありました。

インタビュアー桂

日本語学級に行ったことで、気持ちの面も変化はあった?

インタビュイー

はい。小学校では何も話さず静かにしていましたが、日本語学級では堂々とできました。間違いを認めてくれる雰囲気だったからだと思います。日本語学級で少しずつ日本語を覚えたおかげで、小学校でも少しずつ言っていることが分り話せるようになりました。

インタビュアー桂

間違っても良いと思わせてくれて、少しでも素の自分を出せる場所ができてよかった。
日本語学級以外でも日本語を勉強した?家庭での会話は日本語を使っていた?

インタビュイー

日本のアニメ、音楽番組などのテレビやマンガを見て言葉を覚えていきました。家庭では、母とはタガログ語で会話していました。父とは日本語で話していました。母と父との生活にも徐々に慣れていき、心を開けるようになってきました。

教科学習の壁。落ち込んだ時の気持ちの切り替え方

インタビュアー桂

日常会話にある程度慣れてきても教科学習はさらに難しいよね。その苦労はあった?

インタビュイー

はい。算数でつまずきました。算数の先生が怖くて勉強に興味がまたなくなってしまいました。学校を休む日が増えてしまいました。

インタビュアー桂

そんな時、どうやって気持ちを切り替えていたの?

インタビュイー

母にフィリピンに帰りたいと伝えました。母は、1年に2、3回、私をフィリピンに行かせてくれました。フィリピンで数か月過ごし、日本に帰ってくる生活をしていました。フィリピンに行かせてもらうことで気持ちがリフレッシュされました。

インタビュアー桂

お母さんは、フィリピンを遠ざけて日本にずっといることを我慢させるのではなく、フィリピンで過ごす時間も大切にしてくれたのだね。エンジェルにとっては、母国とのつながりが気持ちを保つのに大事で、無理にシャットダウンしなかったのがよかったのかもね。

中学進学後、人間関係の壁

インタビュアー桂

小学校を卒業して中学校に行きはじめて環境はどう変わった?

インタビュイー

中学生になって友達ができましたが、クラスの雰囲気が悪く、いじめられている子を見ているのが嫌になりました。自分がいじめられたらどうしよう、という不安もありました。学校に行かない日が増え、中学2年生で学校を辞めて、フィリピンに帰りました。

フィリピンで暮らすか、日本で暮らすか。決心したこと

インタビュアー桂

日本とフィリピンを行き来している中で、フィリピンで暮らしていくことは考えた?
やっぱり日本で暮らすと決心した理由は?

インタビュイー

中退してから2年くらいフィリピンにいました。フィリピンで暮らすことも考えて、試しにフィリピンの中学を受験してみたら運よく受かりました。でも、フィリピンの学校の授業は全て英語で、いざ授業を受けてみると、全く内容を理解できませんでした。英語で教科学習をするハードルが、今の自分にとってはかなり高いこと、今となっては、日本語じゃないと理解できなくなっていることを実感しました。それが日本に住む方が良いと思った1つ目の理由です。

2つ目は、祖母が亡くなったことです。祖母から「母のことをよろしくね」と言われ、日本でちゃんと働いて母のことを支えなければならないと思いました。今まで日本とフィリピンを行き来して、学校に行ったり行かなかったりしていたけど、いつまでも自分のわがままを言っていてはダメだなと思いました。フィリピンのいとこ達がちゃんと働いているのを見て、自分もしっかりしなくてはとも思いました。そこで日本に帰り、日本で暮らすことを決めました。

インタビュアー桂

このきっかけで、今までの行動を振り返り、日本で暮らす決心が自分でできたのだね。
日本に帰ってからはどうしたの?

夜間中学校での恩師との出会いと気持ちの変化

インタビュイー

母が勧めてくれた夜間中学校に行き始めました。想像以上に楽しくて、そこでの友達や先生との出会いが私を大きく変えてくれました。

インタビュアー桂

具体的にどんなことがあって、気づきや変化があったの?

インタビュイー

夜間中学には色々な事情を持った生徒がいました。最初は気がつきませんでしたが、私が9歳で日本に来て、早くから日本語に触れて、いま日本語でコミュニケーションが取れていることは、プラスなことだと気づきました。できないことに目を向けるのではなく、できることに目を向けることができました。そして、夜間中学で出会った恩師が、たくさん背中を押してくれました。

インタビュアー桂

恩師からはどんな言葉や励ましをもらって、どう気持ちが変化したの?

インタビュイー

私はネガティブで自信がなく、何でも私にはできないとやる前から諦めていました。そんな時、恩師から「やってみないと分からない。挑戦して失敗して覚えていけばいい。」とポジティブな言葉をかけてくれ、文化祭で仲間とダンスをすることを勧めてくれました。私が迷っていても「上手い、下手は関係ない。楽しいかどうかが大事。自信もって楽しいこと、好きなことをしなさい」と背中を押してくれ、ダンスに挑戦することができました。そして、「エンジェルは、コミュニケーション能力がある、明るいところが良いところだ」と言葉で伝えてくれました。

今までは、自分のやりたいこと、好きなことが分からなくて、適当に生きている感じでした。なんでも私には無理と、途中で諦めてしまっていましたが、文化祭でダンスをしたことをきっかけに、失敗を恐れず挑戦することで新しい景色が見えること、また、人前で何かをすることは楽しいと気づきました。卒業してからも帰れる場所、つながっている人がいることは気持ちの支えです。

インタビュアー桂

人との出会いによって、エンジェルのもともとの性格や好きなことに気づけたこと、挑戦して楽しいと思えた経験は自信につながったと思う!

今回はここまで。後編に続く…!

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